感謝文
令和6年6月29日
お客様、ありがとうございます。
「質問の手を挙げたら昇格」松下幸之助の判断基準 ある時、幸之助さんは「わしは創業期から従業員によう話をしたもんや。その後で時間があれば〝なんぞ質問ないか〟と聞くようにしていた。
そしてパッと手の挙がる従業員の名前を覚えておく」と言われました。「覚えてどうなさるんですか」と聞くと「昇格」とおっしゃったんです。
まさか、冗談でしょう?するとこんな説明をしてくださったんですね。
「わしは現場の情報を皆から得たくて聞いている。でも、もう一つ理由があるんやで。」
「それは何か?誰が松下を継いでくれるか、経営の幹部になってくれるか。後継者を求めているんや。わしが質問ないかと言った時にパッと反応できるためには、まず問題意識が必要や。また皆からええ格好しいと冷やかされるし、勇気も要る。
でもわしが『質問ないか』と言った時に、これを絶好のチャンスと受け止めて行動で示せる、そういう逞しい人材を後継者にせずして会社の発展はない」と言うんですね。
岩井虔(PHP研究所専務)
人に話を、質問が出来るほど真剣に聴く。そんな人は、必ず成功出世するものです。
本日のご来店心よりお待ちいたしております。
令和6年6月22日
お客様、ありがとうございます。
禅の山田無文老師は、色紙を求められると、大きく幸福の「福」という字を書き、その下に「わしゃいらん」と書き添えられておれました。
「福はわしはいらんから、あなたに差し上げる」と。人が幸福になる道がこの言葉に集約されてます。仏教では、幸福になる方法の第一に「布施」、つまり「施し」があります。あげることが出来る人が、実は一番の幸福者なのです。自分にいらないのは、既に自分が幸いに満たされているからです。誰かにあげられるその事自体が幸せなのです。本当の福者は、人様に福を差し上げることの出来る人。幸福だから、人様に差し上げたいという気持ちを持てるのが、本物の福者でしょう。福を差し上げることで心豊かになれるのです。
あれもこれもあげて、何もなくなって。でも、そもそも持っているものは自分のものではない。自分の身体すらも、借り物でしかありません。
借り物でしかないものを、幸い今持っている。借り物だからいつかお返ししなければならない。その真実が心の底から分かる人こそ心の豊かな人です。今はそれがある幸せを感謝しお返しする時まで大事に使うのです。
臨済宗妙心寺派管長河野太通
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令和6年6月15日
お客様、ありがとうございます。
「父ちゃん」小学4年生女子
「父ちゃん、母ちゃんとお金どっちがいい?」
「そりゃ、母ちゃんさ」
「一億円でも?」
「うん」
「うん、母ちゃんはお金にはかえられない」
いつもけんかばかりして
時には母ちゃんを追い出そうとしても
心ではそう思っているんだな
私は うれしくなって
「やっぱり」といって
父ちゃんの肩をたたいてやった
こういう調子で、お父さん方には、お母さんの存在の大きさを、子どもに届けてやって頂きたいと思います。その代わり、お母さん方は、お父さんの輝きを子どもに届けてくださらなければなりません。 東井義雄著「いのちの教え」より
明日は、「父の日」です。お父さんが、社会で、仕事場で輝いている姿を話してあげましょう。そして、お父さんへの感謝の心を伝えましょう。
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令和6年6月8日
お客様、ありがとうございます。
私は孫娘が年少に入園する時「これから出会う人は『みんな先生』だからね。良いことをする人は『良い先生』でまねをしなさい。悪いことをする人は『悪い先生』でまねをしてはいけない」と教えた。すると次の日から毎日報告があった。「今日は『良い先生』に出会ったよ。笑顔で挨拶した人、おばあちゃんを車椅子に乗せて押していた女の人」「今日は悪い先生だった。道の石ころをけって川に落とした人」。悪い先生について(はて?)と思い、「どうして悪いの?」と尋ねたら。孫娘は、「川に落ちたら石はもう上がってこれないし、かわいそうでしょ」という。私は「ものを思いやる優しい心が芽生えたね」とほめてやった。
報告はいつもきちんと家族みんなで聞いてあげたが中学生になってからしなくなった。もうあきたのかなと忘れていた。やがて、高校卒業式の日、孫娘が「おじいちゃんに教えてもらった『みんな先生』の話、友達にも話したらみんなとても素晴らしいことだと言って仲間が沢山増えました」とよろこんでいた。そして「私がみんなを見るように、私もみんなから見られていると思ったら言葉遣いや行動にも気をつけるようになりました。これからも一生続けます」と嬉しい言葉。
優しさに包まれる小さな物語山根利正さん
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令和6年6月1日
お客様、ありがとうございます。
手には五本の指がある。その五本の指の内どの指が中心であるか。姿のよい中指のように思える。しかし、中指に手の働きの自由自在が任されているだろうか。親指の姿は醜い、丈も低い、節も一つ足りない。一番端の方に居て、お邪魔になっているような姿である。
生まれて以来、まだ一度も指輪をはめてもらったことはない。親指は誠に粗末に扱われている。それでも親指を除外することは出来ない。
ペンを持つにも、お茶を飲むにも、何をするにも四本指が親指と組み合わされた時に初めて手の役割を果たすことが出来る。
五本の中で絶対に除けられないのは親指だけである。中心を失ってはならない。親を除け者にしてはならない。子供のわがままで、親を粗末にして眼中に置かない。親を除けることは出来るだろう。
だがその時に、自然の守りを失うことになる。天の支えを失うことになる。
親指と四本の指とは、指の腹を合わすことが出来る。四本の指はお互い同士ではどうしても、腹を合わせることが出来ない。ここにも天の啓示がある。
修養団体中心社 創業者 常岡一郎
本日のご来店心よりお待ちいたしております。