MaruichiMaruichi

Life 感謝文

令和6年10月12日

お客様、ありがとうございます。
三人目の子がお腹にいた、二年前の夏。買物に出かける途中、あまりの暑さに眩暈がして目の前が真っ白になり、気を失ってしまったのです。目を覚ますと、そこは病院、私の手を握る小学生の高学年くらいの見知らぬ女の子。私が倒れたとき救急車を呼び、ずっと私の手を握ってくれていたのです。
「おばちゃん元気になって良かった!元気な赤ちゃん産んでね」と。「本当にありがとう」。涙が止まりませんでした。お腹にいた子も今では二歳、あの時の女の子のような優しい子に育ってほしいと願っています。  横須賀市 山田恵美子 
その男の子が、おばあさんの孫かどう分かりません。車で信号待ちしている時でした。北海道の道は広く、ゆっくりとした足どりのおばあさんが半分くらい道を渡ったとき、もう信号が赤に変わりました。流石に慌てるおばあさん。その時後ろから来た小学四年くらいの男の子が、おばあさんの横にぴたっとくっついて、片手を上げこちらに会釈をしたのです。
渡り終えると、野球帽をとって、ペコンと私たちにお辞儀をしました。「いい子ね」と思わず呟く私の瞼が熱くなりました。  札幌市 神田和子
「涙が出るほどいい話」から二題。
本日のご来店心よりお待ちいたしております。

令和6年10月5日

お客様、ありがとうございます。
米不足で、大変ご心配をおかけしました。価格も3割以上の値上げになり、申し訳ございません。
昨年7月3日の新聞「農民」には、日本の農政の怠慢だとの記事。農水省の「営農類型別農業経営統計」から稲作農家の所得を計算すると、近年の稲作経営一戸あたりの農業所得、たった1万円。
現在の危機は、農政六十年間のなれの果てと。
食糧自給率三十八%(イギリス七〇%、韓国でも四十四%)農家の平均年齢六十八歳。農地は六十年前六百八万ヘクタールが四百三十二万ヘクタールに。農業従事者数は今、百十六万人で、全就業者数の一.七%。十年後はその半数だとか。農家一人で百人分の農産物生産ができると思いますか。
自民党総裁選、立民党代表選がありましたが、食糧問題、農業問題に具体的に言及した政治家は一人も居ません。異常気象、世界的飢饉、戦争などで輸入が止まったら、日本人はどうなるか。
今こそ、自分事として、考えねば、日本人も、日本という国もなくなるかもしれません。
この食糧問題、農業問題を解決させるためには少なくとも三十年、五十年かかる筈なんですが。
本日のご来店心よりお待ちいたしております。

令和6年9月28日

お客様、ありがとうございます。
日本人は自分も自然の一部と感じている。そして、自然=ありのままを一番と考えている。
日本人は、自然に対する態度として、自然と共に生き、自然の恵みに感謝しつつ、いかに自然を生かせるかを常に考えている。
ちなみに、大方の日本人は、努力すること、働くことを自然なことと考えている。だから、働けることを幸せと感じている。生物にとって働くことは当然で、自然なことなのである。
日本人は、働いてこそ充実した人生になるのだと思っている。勤勉は人のお役に立つことであり、おのれを磨き幸せを掴むための徳なのである。
欧米人は、自分は自然とは別の特別なものと考えている。人間は自然より上にあると考えている。だから、自然は対決するもの、そして、征服するものと思っている。したがって、自然のものに、必ず、人の手を加えようとする。(例えば、木肌を愛でるのではなく、ペンキを塗ってしまおうとする。) 場の言語学試論より
日本人にとって、働くは労働ではないのです。
勤勉こそ日本人の財、日本の資源なのです。
本日のご来店心よりお待ちいたしております。

令和6年9月21日

お客様、ありがとうございます。
どんな人間にでも「我」はあるの。人間の本性なの。その我は気ままやから、知恵で押さえるの。
教育のない者ほど気ままで我が強いの。我ばかり通していたら、平和はないの。強いやつが弱い者を食いよるの。我の強い者は、滋養にならんから、牛もくわないかん、魚も摂らないかんというの。そんなことあらへんの。野菜食うても生きられるの。粗末な生活していても生きていられるの。人間ほど怖いやつはあらへんの。狸でも狐でも昼、姿を見せたら、捕まって皮を剥かれるから皆逃げるの。人間と畜生との間で、向こうが弱いために一生苦しみよる。昔やったら、百姓が米つくって、それを殿様が皆取ってしまいよる。百姓は、稗食ったらいいのと言う。そういう差別の社会が、人間の難儀な世界やの。それは我が働くの。宗教の知恵があったら可哀想やなと我を抑えて、まあまあ堪忍してやれというの。例えば、彼岸になったら信心の家は、彼岸の供養にシジミ一升川へ流してやる。彼岸の中日だけは、魚を殺すのは止めてやれ。宗教を持ちましたら、それだけの同情と慈悲心が湧いてくるそれが知恵やの。
清水寺前貫主 大西良慶和上百七歳 法話より
明日は彼岸の中日。お墓参りしましょう。
本日のご来店心よりお待ちいたしております。

令和6年9月14日

お客様、ありがとうございます。
先週の続き。明治四十五年、初めて日本にお帰りになられた時、全国から講演を、の招待がありました。博士は「久しぶりに帰って、日本の皆さんからのご招待感激してます。しかし、長らく母親を一人でほっておき、寂しい目をさせております。せめて、日本にいる間だけでも母親の側を離れるのは一時もいやです。もし、母親も連れて行っても差し支えなければ参りましょう」。どの学会でも「結構です。是非ご一緒においで下さい」ということで、磐梯山の麓で百姓をしているお母さんの手を引いて、東京、名古屋、京都、大阪、と講演に回られました。講演の僅かの時間を割いて箕面の講演で紅葉を見ながら、茶店でお昼を召し上がられたとき、博士が「お母さん、お母さん、お母さん、お母さん」と言うて、もう背中まで撫で回し、箸をとって食べさすような本当の幼児のような純情でお母さんの世話をなさる姿がこの茶店の女将さんの目に焼き付いていたのです。「五十年たってもその姿が目から消えぬ。私が死んでもあの博士さんのお姿が消えんように、銅像を建ててもらいたい」とへそくり何十万円かを出し、学校の子ども達や地域の人々の拠金で、立派な銅像ができたのです。
本日のご来店心よりお待ち致しております。